【一般事情】 |
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国名 |
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バングラデシュ人民共和国 PEOPLE’ S REPUBLIC OF BANGLADESH |
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地理的位置 |
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北緯20度34分から26度38分、東経88度1分から92度41分にわたる。
亜熱帯地域に位置する。平坦、肥沃な沖積層の土地。 |
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国境 |
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北−インド(西ベンガル、メガラヤ)。
西−インド(西ベンガル)。
東−インド(トリプラ、アッサム)、ミャンマー。
南−ベンガル湾 |
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面積 |
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147,570平方キロ(日本の約0.4倍) |
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人口 |
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約1億3340万人、密度755人平方キロ |
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季節
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主な季節は夏、モンスーン、秋、冬、春。
夏 4月から6月。
雨季 7月から9月。
秋 10月から11月。
冬 12月から1月。
春 2月から3月。 |
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気候
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亜熱帯モンスーン
最低気温 摂氏 4.5度〜13.4度(1月) 最高気温 摂氏25.5度〜36.8度(7月)。 |
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降雨 |
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1,194mm〜3,454mm(6月中旬から8月中旬) |
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湿度 |
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最高99%(7月)、最低36%(12月、1月) |
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植生 |
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草地、常緑 |
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人種・民族 |
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オーストロイド、ドラビタ、モンゴロイド、アーリア混合。ベンガル人が98% |
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言語
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公用語はベンガル語(95%)、その他(5%)。
第二言語として英語が広く用いられている。 |
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識字率 |
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61% |
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宗教 |
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回教(88.3%)、ヒンズー教(10.5%)、仏教(0.6%)、 キリスト教(0.3%)、霊魂・部族信仰(0.3%) |
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行政区分
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国は5地方地区(ダッカ、チッタゴン、クルナ、ラジシャヒ、バリサル)に分かれる。
5地方行政地区は64の県に分かれる。首都はダッカ。 |
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首都 |
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ダッカ首都圏 面積522平方キロ、 人口約1,354万人 |
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通貨 |
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単位はタカ(TAKA) IUS$=約57.90TK(2002年) 紙幣は500、100、50、20、10、5、1TK. |
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時間 |
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GMT(グリニッチ標準時間)より6時間早い。 日本時間より3時間遅れ。 |
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地勢
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国土の大部分はブリコンガ(旧ガンジス)、 プラマプトラ両河川が形成した肥沃な大デルタ地帯であるが、
全体に海抜が火低く、洪水の影響を受けやすい。
主要な河川は、メグナ、プラマプトラ、バドマ、ジャムナの四大河川に支流を含めると230河川。 |
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主要作物 |
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米、麦、ジュート、茶、砂糖、タバコ |
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主鉱物資源 |
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天然ガス、石灰石、鉱石、石炭、シリカサンド、 リグナイト、ホワイトクレー、放射性砂 |
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主要輸出品 |
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ジュート、縫製品、ニット製品、海老、皮革、紅茶、 化学肥料、手工芸品、農作物等 |
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主要輸入品 |
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石油製品、穀物食糧、セメント、機械及び部品、 缶及び袋入り粉ミルク、食用油等 |
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主要産業 |
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ジュート、繊維、皮革、縫製品、化学肥料、海老等 |
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主要貿易港 |
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チッタゴン、モングラ |
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空港 |
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ダッカ、チッタゴン、シレット、ジョソール、 ラジシャヒ、イスワルデイ、サイドプール、 コックスバーザール |
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交通事情
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鉄道 コムナプール(ダッカ)〜チッタゴン 160〜550TK(a/c)
〜シレット 700TK(a/c)
〜マエモンシン 200TK(a/c)
タクシー ベビータクシー(三輪車)初乗り12TK 1km増6TK
普通タクシー(イエロー)初乗り20TK 1km増8TK
普通タクシー(クロ) 初乗り15TK 1km増5TK
バスターミナル サイダバド(南)クミラ、チッタゴン方面200〜300TK
カブトリ (北)ジョショール、クルナ、ボリシャル300TK
モハカリ (東)ガジプール、トンギー、マエモンシン120TK
グリスタン ナラゴンス方面25TK |
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テレビ局 |
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ダッカ、チッタゴン、ラジシャヒ、クルナ、 シレット、ラングプール |
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ラジオ局 |
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BTB、NTB、ATNB |
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衛星放送 |
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ダッカ、チッタゴン |
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領海 |
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12海里、経済水域200海里 |
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勤務時間
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【銀行】
午前9時から午後3時(土曜日から木曜日)
午前九時から正午 (土曜日)
金曜日は休日
【政府機関】
午前10時から午後5時(土曜日から水曜日)
午前10時から午後2時(土曜日)
金曜日は休日
【高等裁判所】
午前10時から午後4時半(土曜日から水曜日)
午前10時から午後1時半(木曜日)
金曜日は休日
【一般商店】
午前10時から午後8/時
木曜日、金曜日は休日の所が多い。
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祝祭日
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*イスラム
イードル・フィットル
イートル・アズハ
イート・エ・ミラドウンノビ
ジョンペポラト
*ヒンドー
ドウルガ・プジャ
*クリスチャン
クリスマス
*仏教
ブッダプルニマン
*上記以外の祝祭日
正月、 独立記念日、 終戦記念日 |
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略史
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1947年パキスタン回教共和国の東パキスタ州として発足したが、更に1971年バングラデュシュとして分離、独立した。
独立前は西パキスタンに経済を支配され、一種の植民地のような存在であった。
1973年に国連に加盟。1975年パキスタンと外交関係樹立。
同年クーデターが起こり、軍政になったが、1979年民政に移管した。 |
【バングラデシュの歴史】 |
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バングラデシュの国名はバングラ=ベンガル、デシュ=国、『ベンガルの国』という意味を持っている。
バングラデシュは1971年に独立した比較的新しい国で、独立迄の道のりは決して穏やかではなく、1947年ヒンドゥー教徒と
イスラム教徒の宗教対立を背景にイギリスの植民地支配からインドが独立した時、バングラデシュは現在のパキスタンと共に
イスラム教徒を国境とする東・西パキスタンとして独立をしたが、東西に1,800kmも離れた国土、異なる言語、その他にも多くの矛盾を抱え
ていたので、わずか24年後には東パキスタンはバングラデシュとして再び独立を果たしていたのである。 |
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ベンガルとは、現在のバングラデシュとインドの西ベンガル州、東北諸州を含む広範囲を指し、
ヒマラヤ山脈から流れるガンジス、メグナ、ジョナムやその支流がベンガル湾に注ぐ河口付近一帯の一大デルタ地域で、
この豊かで地理的便の良い土地柄から、ベンガル地方は古代より他国との接触の中で、その独自の文化を育んで現在にいたっている。 |
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ベンガル地方は紀元前4世紀前半その北東部がマウリヤ朝(紀元前317〜183年頃)の統治下にあった。
マウリヤ朝の始祖チャンドラグプタは西北インドからギリシャ軍事勢力を一掃して、西はイランから東はベンガルにいたる広大な領土を保有した。
アショカ王の時代に最盛期を迎え、彼の仏教への改宗(紀元前262年頃)後は仏教理念に基づく統治を行った。
当時ベンガル北部はプンドラヴァルダナ・ブクテイと呼ばれており、その地域はバングラデシュ最古の大都市として大いに繁栄していていたとの事である。
この跡を現在のボグラ県のモハスタン遺跡で見る事が出来る。アショカ王の死後、マウリヤ朝は急速に衰えて紀元前184年頃に完全崩壊をするが、
プンドラヴァルナダ・プクテイは12世紀にセーナ朝時代に首都がガウルに移転されるまで繁栄を続けたと言われている。 |
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その後、グプタ朝(320〜540年)がチャンドラグプタ一世によって建国されると、この王朝の下で細かな小国に分裂していた
北インドが再び統一され、ベンガルもサマタタを除きグプタ朝の支配下におかれた。 |
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ここではヒンドゥー教、バラモン教、大乗仏教が同時に栄えて、人文、科学も発達し、ベンガルでは大規模な僧院が
次々と建設され独自の造形美が作り出されたといわれ、その最たる建物と言われるのはクミッラのモエナモテイ遺跡である。 |
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5世紀後半から6世紀にかけて、グプタ王朝は衰退し始め、6世紀半ばに崩壊するとベンガル地方にも再び地方勢力がいき興り始め、
ベンガル地方はこの後一世紀ほど再び混乱期を迎える長期にわたる混迷の時期を経て、760年にゴーパーラーが追うとして君臨する
パーラ王朝が誕生する。北インドの広範囲な地域を支配化に入れたパーラ王朝のもとベンガル地方は北インドで1、2を争う強大な王国として栄え、
歴代の王は芸術や文学の熱心な擁護者であり、信仰の篤い仏教徒であった。更に公共事業に積極的に取り組み、隣国との関係も友好保った。
チベットへの仏教の普及は彼らの影響が大きいと言われている。 |
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11世紀、インドのカルナーターカ出身のセーナ家が、パーラ朝の衰退に乗じて、セーナ朝(11世紀後半〜12世紀末)をうちたて
ベンガル地方をその支配下に置き、ヒンドゥー教の強化、特にカースト制度の再編成に力を入れた。
しかし、1201年トルコ・アフガン将官がナヴァドヴィーパを奇襲攻撃し、イスラム教徒へのベンガル支配が始まり、1210年には
ムスリム諸王国デリー・サルタナット朝時代が幕開けした。しかし、このデリー・サルタナット朝も14世紀半ばには弱体化して各地でムスリムの
独立政権が生まれた。1342年、ベンガルにもイリヤース・シャーヒー朝がうちたてられ、このイスラム王朝の支配下で都市化が進み、多くの城やモスクが建立された。 |
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1526年、モンゴル系トルコ人バーブルがムガール帝国を興し、後にベンガルもこのムガール帝国の支配下に入った。
この時代ベンガル地方では多くの人々がイスラム教に改宗し、又ムガール太守のもとで、1608年には首都がダッカに移された。
この頃は都市化は更に進み、芸術や文化が開花し、海洋貿易が栄えた。今では幻の布と呼ばれたダッカ・モスリンは7世紀頃から
欧州にもたらされ珍重されていた。豊富な木綿、インディゴ、絹、スパイスを求めてポルトガル、フランス、アルメニアなどの貿易会社が
ダッカに拠点を作ろうと次々と進出をしてきた。 |
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そして1686年にイギリスがカルカッタに交易市場を持つ契約を取り付け、
これをきっかけにイギリスは徐々にインドに対する植民地支配を強めていった。 |
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かつてない程の繁栄を極めたムガール帝国もアウランゼーブの時代にその最盛期を迎えたが、1707年の彼の死後衰退の道を辿った。
この頃からカルカッタに一つの貿易拠点を持つにすぎなかった東インド会社が本格的に台頭し始め、当時ベンガル地方を統治していた
ジラジーウドデウーラは1956年にカルカッタの東インド会社を襲い占領したものの(ブラックホール事件)、この事件がきっかけで翌年にはプラッシーの戦いが始まり、
勝利を収めたのは東インド会社の軍隊でイギリスはこれにより商業的覇権をめぐっていたフランスとの抗争にも決着をつけベンガルの財務権限を掌握して
完全統治を始めた。
1857年にセポイの乱が起こるが、それを平定するとムガール帝国を事実上消滅させた。
イギリス式の文化、教育、司法制度に早くから馴染んでいたヒンドゥー教徒に比べイスラム教徒は頑なに彼らの影響を受ける事を拒み続けた。
東ベンガルではフェライジー運動、西ベンガルではターリカエ・ムハマンデイー運動等が相次いで起こり反英抵抗運動という形のイスラム復古主義運動が
農村を中心に起こった。1905年宗教対立からくる反乱を恐れたイギリスがベンガル州をベンガルと東ベンガル=アッサムに分割することに決定すると、
国民の反英感情はさらに高まりイスラム教徒の団結力も高まった。結局1912年に再統合されたが、イスラム教徒たちはさらに『イスラムの国』を渇望するようになった。 |
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世界を戦争の波が覆い、多くの犠牲と共に終結した2年後の1947年にイギリスのインド支配は幕を閉じた。
ベンガルはその東西をインドとパキスタンに分割され、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒はこうしてお互いに独立国家を手に入れた。
イスラム教徒はパキスタンという独立国家を手に入れたが、その国土は間にインドを挟み、東西に分割されており、ムスリム国家はその出発点から経済的、
政治的、文化的に多くの問題を抱えていた。
西パキスタンの公用語はウルドウ語であって東パキスタンの言語はベンガル語で、人口や商品作物生産量では東パキスタンの方が
勝っていたにもかかわらず、殆どの政治的リーダーシップは西パキスタンで行われる、西パキスタンが何かにつけて東パキスタンを差別扱いしたこともあって
ベンガル独立運動は1952年ウルドウ語のみを公用語にしようとした中央政府に対する抗議運動という形で始まった。 |
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1952年2月21日、ダッカ市内の学生デモに警官が発砲し、数人の死者をだし、暴動が起こり、鎮圧の為に軍隊が出動し、多数の死傷者を出す惨事となり、
後にこの日を『犠牲者の日』と呼ばれるようになり、最初のバングラデシュ独立運動として記憶される出来事である。 |
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1954年東ベンガル州議会選挙で、野党統一戦線が圧勝すると1957年には完全自治要求を決議するに至った。翌年には東パキスタン州議会で
与野党が乱闘する騒ぎになり、負傷した副議長シャヒード・アリーが数日後死亡すると、戒厳令が敷かれてバングラデシュの建国の父と後に言われている
ムジブル・ラーマンを含む主要指導者・高級官僚が多数逮捕された。1962年に戒厳令は解除されたが、独立運動はますます激しくなり、1966年に
ムジブル・ラーマン率いる与党のアワミ・リーグが国防・外交・通貨以外を州管轄事項とする完全自治の6項目綱領を基本に東パキスタンの自治権の主張を明確にする。
脅威を感じ始めたパキスタン政府はムジブルをインドと結託した反国家分子として逮捕したが、これが引き金となり東パキスタンで6項目要求ゼネスト
(ホッタール)が活発となり、反政府運動は高まっていった。1970年サイクロンや洪水の被害が次々に東パキスタンを襲うが中央政府の救援対策の
遅れに住民の不満はさらに高まり、同年12月に行われた国会議員選挙でアワミ・リーグが過半数を制し、勝利を収めた。 |
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これに対してヤヒヤー大統領は国民会議の延期を発表し、同時に各州の軍人知事を戒厳司令官に任命する。
事態は悪化の一途を辿り、3月25日ムジブルが全州ゼネストを支持した夜、軍の一斉攻撃が開始され内戦へ突入した。翌日未明ムジブルは逮捕されるが、
バングラデシュラジオ放送はムジブルの声明として独立を宣言する。内戦早々にインドはベンガルを指示し、内戦は泥沼の様相を呈した。
その最中の4月10日、人民連盟指導者がバングラデシュ人民共和国の独立を正式に宣言しムジブルを大統領にノズルル・イスラムを副大統領に指名した。
5月にはパキスタン軍がバングラデシュほぼ全土を制圧し、解散戦線はゲリラ戦に突入する。バングラデシュでは大量殺戮が行われ、インドへの避難民は100万人を越した。
インド対パキスタンの関係は悪化の一途を辿り、11月に非常事態宣言がなされると、インドとパキスタンは全面戦争に突入し(第三次印パ戦争)、12月16日
ダッカがインド軍の手に落ち、インドによる西部戦線の一方的な停戦が宣言されるとヤヒヤー大統領は停戦を指令し8ヶ月にわたる内戦に終止符が打たれた。 |
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バングラデシュ政府の公表によると300万人とも言われる犠牲の上に、ついにバングラデシュは独立を手に入れた。 |
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多くの代償を払って建国されたバングラデシュは、その建国当時から多くの問題を抱えていた。
当初掲げた民主主義国家という原則も、1975年クーデターによるムジブル・ラーマンの暗殺後、すぐに軍人大統領による独裁政治に取って代わられ、
戒厳令につぐ戒厳令、クーデターにつぐクーデターとその道のりは困難を極めた。しかし、学生運動等による民主化の波に押され、
1991年にエルシャド大統領率いる軍人独裁政治に幕がおり、BNP(Bangladesh Nationalist Party)党首カレダ・ジアが総選挙で首相に任命され、議院内閣制が復活した。
1996年の総選挙の結果アワミ・リーグ党首、シェイク・ハシナが首相として任命され、彼女のもとで議員内閣制が維持されていた。
シェイク・ハシナは故ムジブル・ラーマンの娘でその家族の殆どが殺害されたクーデターの時には海外に留学中だったためにその難を逃れた。
事件の現場となったムジブル・ラーマンの自宅はボンゴ・ボンドウ博物館として整備され、ダッカ市内の観光名所の一つになっている。
その後2001年に総選挙が行われBNPが勝利を収めカレダ・ジアが首相に任命された。 |
【バングラデシュの経済】 |
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経済概要 |
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バングラデシュ経済の中心は農業である。全雇用の約6割が農業関連に従事している。最大の農業生産物は米であるが、
1億3千万人の人口を養うには灌漑設備の不備に加え、例年のサイクロン・洪水による被害が甚大な為、食糧自給は達成されていない。
従って、外国からの援助と政府や民間企業の輸入に頼らざるを得ない部分が少なくない。 |
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この国の独立以来の最大の目標は、貧困の撲滅である。そして、このためには工業化を進めることが重要であるとして、
政府は様々な政策や方針を打ち出しており、近隣諸国に遅れをとらず、東南アジアのような発展を目指している。
例えば、99年の発表では今後10年間に産業に占める工業の割合を25%にし、総就業人口の20%が工業生産によって生計を
立てられるようにするという目標である。しかし、この国の工業は70年代以来現在まで、産業全体の10%前後でしかなく、
目標のみで具体的な方策を立てていない現状では今後大きく飛躍するとは考えにくい。 |
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主な工業製品は衣類、皮革製品、食品、飲料、タバコ、化学製品、金属加工石油精製などである。
そして、その中心は衣料品であるが、これは輸出品の中心でもあり、約6,500億円ある輸出の8割近くを占めている。 |
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衣料品は古くはタイやインドネシア等でも主力製品であったが、近年ではより人件費の安い南西アジア地域にその生産拠点が移りつつある。
しかし、資源に乏しいこの国では、全ての原料を輸入に頼らざるを得ず、また電力不足、港湾機能の停滞等のインフラ部門での未整備や
自然災害などを要因に投資環境が極めて悪いため、産業が育つ素地がない。従って、完成品を輸出しても実際にはバングラデシュに落ちる金は少ない。 |
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また、輸出先の半分近くは米国であるが、これは米国にクオータと呼ばれるバングラデシュ製品を輸入する義務が「枠」で決められているからである。
通常このクオータは輸出制限となるが、ここでは保護として受け止められている。 |
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つまり、例えば中国で多くの外国企業が工場を作り、そこで生産した物を米国に輸出している。しかし、クオータによる輸出制限枠が100であったとする
と、例え150の生産が可能でも輸出できるのは100のみである。従って通常は生産性が悪くなりコスト高となる。
しかしバングラデシュの場合は、中国ほど生産量や品質が高くない分、自由競争であれば50しか輸出出来ないところを100輸出出来る仕組みとなっている
のである。しかし、この制度も2004年末には廃止されることが決まっているため、多くの輸出業者は危機感を募らせており、政府にこの制度の延長を国際
社会に求めるよう訴えている。これについては当面は延長が決定したが、この国の政府や地元企業が長年に渡って保護策に守られてきたため、衣料品に
続く新たな輸出製品の発掘や、衣料品の品質向上、新たな市場開拓、そして原料を輸入に頼らなくても自前で生産できるよう裾野産業を育てることを怠っ
てきたツケが回ってきた結果と言えよう。 |
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この様に輸出品目の8割を衣料品で占めるが、この他には冷凍海老やジュート製品が代表的である。
ジュートとはインド周辺を原産とする一年草で、これを使ってロープやナンキン袋を作ったりする。又、カーペットの裏地や木の
根や幹を保護するために巻いたりするのにも使うが、最近では環境に優しい商品という事で需要が伸びている。 冷凍海老は養殖が殆どで、約300億円ある日本への輸出3割以上はこの海老で占められている。但し、日本の消費者が形、大きさの均一性に
敏感なため、なかなか日本市場のシェアに割り込むには至っていない。 |
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